愛知県美術館 アートスペース12階 H室 個展
2014年12月9日~12月14日










『 自然循環  母へ 』





水の中の水泡を見るとき

美しく無限の動そして無常を思う

果てしなく広がる空の星々と重ね

ふと宇宙を感じることもある

人の意識は死をもって宇宙に還り

人の肉体は死をもって塵となり地に帰る

母の命は天へそして地へと戻ったことを

私は自然循環として受け止めよう…と

マクロ宇宙とミクロ宇宙の物語を命は語る

生と死を繰り返し繋がっていく

ありふれた日常の極小と極大の采配によって








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私的なことで、かつ身内を褒めることをお赦しください。
母は佇まいの美しい、そして想像力の豊かな人でした。
また、母は料理が大好きな人でした。お弁当作りは特に好きで、私たち姉弟3人に
喜んで美味しく彩り豊かなお弁当を作ってくれました。
父や、亡くなった祖父母にも母の手料理は温かく幸せな思い出のひとつだと思います
時々「料理をするとお腹がいっぱいになる」と、母は言っていました。


日常的なこの言葉は、少し意味が違うかも知れません。 が、
誰の心の中にもある母性。
「慈しむこと与えること」をいとわなければ、
 自然は循環するのではないか、という気がしました。
植物や動物を深く愛で「与える」ようになると、
人は少食で満足するようになるのではないか、という想像と仮説を立てています。

植物や動物を「食べるために育てるのではなく、愛で慈しむために育む」。
そうすると、心が満たされるから...。 きっとその人々の「生物への愛情」に、
自然は恵みをまた人に与え、 無限の「真実の自然循環」が起こるのだろう、と感じています。

人間中心の経済活動が、自然破壊をしているのは自明です。
現代日本は、進歩したのではなく人工化・無機質化そして多様と複雑に過ぎない、と。
このまま人工化社会が進めば、もう未来へ過去の恩恵を子孫へ残すことは無理でしょう。
植物の「命」がなければ人間は一日たりとも生きられないのですから。
私たちが今、物質的に多様な暮らしができるのは、現代が進歩したからではなく、
自然を尊ぶ先祖の人々のお陰による、「自然温存からの人工物質化」だと思います。

約 150 年前。幕末迄の日本人は皆、幸福感がみなぎっていた、と。
最近読んだ『逝きし世の面影』渡辺京二著に書かれて有り心底、驚きました。
なぜ、そんな大切なことを私は知らなかったのだろうか、と。
現代社会の真相は「進歩・進化」という言葉で盲目になり、
操られているのではないでしょうか。
摂理・普遍を見失い、慎みを忘れてしまった、
中世からの人間中心とは何であったのか。
西洋文明への礼賛なるこの世界、
現在の地球文明にやるせない疑問が湧き続ける昨今です。

現代人はみな幸福感は薄く、「空気・水・食べ物」に疑心暗鬼。
信頼し安心できる命に不可欠な自然からの恵みは、ほぼ無くなっています。
人間は、植物や動物、自然界のあらゆる存在に、‘ 使役や搾取 ’ ではなく
「慈しむ」「与える」「育てる(素を立てる)」という心をそれぞれ、
自らの判断と意志で取り戻すことだ...。(当たり前のことかもしれませんが) と、
私は母の何気ない「日常の言葉」から感じたことでした。
自然循環は、‘ マネーの力 ’ では不可能だろう、と。
経済のための喧伝「持続型循環社会」という言葉も超えて。
マスコミ(TVラジオ・新聞雑誌・多国籍企業広告・傀儡政治家・御用学者・工作員)の
誤誘導の喧伝に気付き…。

すべての命をつなぐのは、そしてその始まりは、
人の心の「情」より他は無い、と思っています。

協力してくれる家族のみんなへ感謝と共に。
そして私を産み慈しみ育ててくれた
母へ こころから深く感謝と愛情を込めて。













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『あつめる こえ』


極端な話。
「人間が生まれて死ぬまで、排泄物をすべて
大地に戻し、屍が土に返れば
既に人の存在は地球のお役に立つのである。」
と、単純なことを時々考える。

80歳まで生きると計算して約29200日分の排泄物と
それまでに地球で与えられた食物を食べてできた体が
物質として土に戻る。つまり、人体のアミノ酸や多種ミネラルが
土に返り、植物、微生物、動物がまたその栄養素を得て、
繁栄することが重要な自然循環になるであろう。

人間の食のルーツは果菜食動物である けれど、農耕が始まる前に数百万年の間、
果物や菜類の他、海藻や魚、小動物も食し、あらゆる場所に住み、あちこちで排泄し、
種は色々な所にばら撒かれていたであろう。
人間の当たり前の命の営みによって大地の最高の栄養はコンパクトに移動できる。
最後は肉体も土に返っていた時代を思うと、他の生物に
確かに役立って来たことは想像がつく。

人間は生まれて何歳で死んだとしても
生物的にはすでに地球のお役に立つ、存在するだけで、
地球に恩返しできるということだ。

しかし、現代を見渡せば分かるように、ほとんどの排泄物は下水として集められ
浄化して水と汚物に分けて、水は海へ汚物は固めて ほとんどは一箇所に
埋められる。昨今では汚泥処理が悩みの種だと聞いている。
戦後からは日本ではほぼ100%火葬であり、決して人体がゆっくり土に
戻ることは無い。ちなみに、現代日本人はもし土葬しても
腐敗しないらしい。なぜなら、防腐剤を生涯のうちに大量に
摂取しているからだという。
更には、現代の汚染食・偽食を摂り続けた人体は、
大地にすれば厄介な代物と化している。排泄物も然りである。
ミイラになればまたそれもいいのだろう。が、乾燥でも無い訳で、
非常に生物として不気味なことではないか。

現代の人間は誰しも自分の存在意義を確かめたくて、
あるいは存在不安を抱えながら、肉親にし ろ他人にしろ人間関係で、
仕事で、人生の多種多様な悩みを抱え生きている。

また、親がいてフツウに育ち順風な人生を送る人間と、
逆に、家庭環境が複雑で生立ちに苦しむ人、
乳幼児期で肉親に捨てられてしまい、社会で生き辛さを
感じ苦労して死んでいく人もいる。
人生はあたかも存在意義が不平等にできているようで、
憐れに感じることも沢山ある。
更には、現代の人間は存在不安を権威や財力で、
心理的穴埋めをしようと試みる。 が、それこそが混沌社会の原因と言っていい。


もし生物的な循環が本来、守られていたなら
どのような環境や条件下に生まれようとも、
肉体がこの世に存在できただけで
地球のお役に立てる大変に有難いことだったのだ。
存在意義を問うて思い煩う必要は無かったのである。
正に母体に心から感謝だ。
少々気障な言葉だけれど…。
すべての命は己の想像力を楽しむために
宇宙の揺り籠で生かされているのである。

もし、最初に述べた「排泄も屍も土へ戻る」としたら…。
私は生物の集合無意識としての安心感や信頼感が復活するのではないかと
想像してみるのである。

死への恐怖とはどこから来るのであろうか。
存在意義を問い続ける苦悩、存在不安から逃れるための
痛ましく哀しい努力が人工的な暮らしに
向かわせているのではないだろうか。

社会構造が明治より極端に西洋礼賛に変換させられ人工的な環境へ向かい続け
現代日本社会の問題増幅の根本を考えると、
「生物としての存在意義を喪失したことである」と言えまいか。

欧州は未だ土葬が多いようだ。なぜ、日本は火葬をしなくてはならなくなったのか。
表面的な理由は衛生面だとか土地問題と列挙できるであろう。
しかし私は憶測の域を出ないが、彼らが人工種であり
倭人である存在の証拠を消滅させたい…という
トンデモチックなことまで考えてしまうのである。
火葬に切り替えられたのは、
おそらくGHQの強制指導があったと推測する。
DNA鑑定の分析技術は日進月歩。
今後は天皇さままでも火葬である。
想像力を使って、生物として何が狂っているかを暮らしの中で
各々思いを馳せた方が良いのではないだろうか。